2018年11月23日

御茶ノ水駅・小赤壁・グリ−ン車


 ある日新聞に、JRが中央線の電車にグリーン車を導入するとの記事が出た、2両増結するためにホームの延長工事が必須で、御茶ノ水と荻窪・吉祥寺に難工事が予想されるとあった。既に工事が始まっていて、水道橋よりの崖に蜀の桟道よろしく吊足場が設けられ、この風景を眺めるうちに中学生の頃の話が思い出された。

otya a.jpg
 写真 御茶ノ水橋より水道橋駅方向の崖 (蜀の桟道の足場)

 中学2年新学期、新しい漢文の授業が始まった。小身痩躯白髪の牧野先生、出欠簿で呼び上げ起立した一人一人を確認しながら、小生の番が来た「おおはし」との声に全く反応しなかった、あたりを眺め回すように再び「おおはし」ときた、そこで小生「おおはた」ですと起立した「幡」が読めないのかと軽い抗議の気持ちも有った、じろりと見て「どこから来た」との冷たい口調に「本所東両国です」と応えると、すかさず「川向こうか」と切り捨てられた。本所深川で両国とくれば、同じ下町でも少々優越感を持っていたが、あっけなく踏みつけにされた思いであった。

 この先生の授業の中で御茶ノ水に話が及び、神田川の崖をえぐるように省線電車が走り、ここを「小赤壁」と呼ぶということから、上野の不忍池を「小洞庭」、さらに瀟湘八景に因んでの「近江八景」と話しが膨らんだ。さてこの「小赤壁」、先生の話から半世紀以上再び出会うことも無く、この呼称を使う人もいなかった。更にこの崖天然のものではない、徳川幕府が発足してまもなく、大きな利根川の付け替え工事と並んで神田川の開削が始まった。中国の故事に「水を治めるもの天下を治める」というが、歴史上黄河は暴れ河で中華の大平原を幾度と無く氾濫して、いくつもの川筋を残している、まさに河を収めることが政治の初めであり、徳川幕府もその例に倣ったのであろう。

 蛇足ながら、神田川の開削工事万治三年から、仙台藩三代伊達綱宗により始められた。更に「赤壁」とは揚子江流域にあり、曹操と劉備・孫権両軍による天下分け目の戦いの場である。

 上毛に発する利根川もともとは江戸川として東京湾に注いでいたが、これを渡良瀬川に合流させ太平洋に向け、江戸の洪水禍を防止したのである。更に千川と善福寺川の合流点(現在の飯田橋)から真っすぐ東の隅田川に、放水路として神田川を掘削したのである。殆ど東西に真っすぐな神田川も。御茶ノ水の辺りでカーブしているのは、当時の工事能力から、本郷台地のくびれた鞍部を選んで開削したためであろう。
 またこの掘削は現地の土質(岩盤ではない)により、逆ハの字の斜面であったが、明治になり右岸に鉄道、左岸に道路を設けることにより、現在の絶壁状の地形が生まれたので「小赤壁」の歴史は明治になってからのことである。

 ここでさらに「赤壁の戦」にふれてみると、208年華北平定に成功し中国統一のため南下した曹操は、諸葛孔明の策により同盟した劉備・孫権の軍と、長江赤壁の地で対峙し、孔明の火計の策により敗退し、全国統一どころか天下三分の形勢となった。この戦い両軍併せて100万余・数千隻の規模である、「小」とはいえ余りの落差アゼンとするしかない。

 工事現場に戻ろう、グリーン車対策の記事(15・3・7)に先立って1年ほど前から、直下型地震対策として
斜面の土留め工事が始っていた、水道橋よりの斜面で何度かの出水騒ぎがあり、中央線の上り線がその都度運転休止になりさこそと思えたが、それにしても神田川上の架設工事が、不釣合いに大きいと思っていたが、グリーン対策費750億と知って合点がいった。

御茶ノ水駅のホームは東側の聖橋と西側の御茶ノ水橋の間に設けられ、東側は中央線の上り線が総武線の下にくぐり、ホームに段差が出来てこれ以上延長の余地は全く無い、西側の終端にはホームの幅一杯の階段があり、ラッシュ時の混雑から階段の幅を狭めることは出来ず延長出来そうも無い、難工事というよりグリーン車そのものが没かと思われた。

 工事の状況は、初め「首都圏直下型大地震対策」との看板が掲げられていて、秋葉原よりの吊足場から水道橋方面に延々と足場が組まれ、壁面 の土留め工事が進んでいるが、工事用の人員機材全てが水面側から対応するしかない、神田川上に架設工事用のH柱が多数打ち込まれ、テニスコート数面ほどの仮設デッキが設けられているが、いかにも工事規模にふさわしくない、ここでこの仮設グリーン対策と判断した。ホーム拡幅のため中央線の上り線を神田川よりに移設すればよいと合点した、その気になって見ると、デッキと上り線の間には充分の余地があり、御茶ノ水橋の橋脚の外側水面上に橋脚を設け橋梁上に上り線をと考えた。そしてデッキ上には基礎工事用のコルゲート板が山と積まれている、果たせるかなと確信し工事の進行を予想しいて、色々と記録になる写真を撮ってみた。

otyanomizu 03.jpg
  写真 神田川に設けられた仮設工事

otya c.jpg
      中央線上りホームより御茶ノ水橋を見る(線路を橋脚の右側に移しては?)

otya d.jpg
  御茶ノ水橋よりの土留め工事斜面(この部分を埋め立て線路を移す)

 しばらくして現場を訪れてみると、先の予測に不都合なことが起こっていた、御茶ノ水橋よりの斜面の土留め工事が永久工事の様を示している、ここは外側に障壁を線路の高さまで設け埋め立てるはずが、全くの誤算でありホーム幅の問題をどう解決するのか分らない、改めて工事の状況を見ると、上下線のホームにH柱が立ち並び仮設の梁でガッシリと井桁に組まれており、ホームの下がスッカリ掘り取られ足元スカスカになり、コルゲート板が消え失せている、どうやらホーム下の基礎工事に使われていたのだ。

  
 程なく仮設デッキに大型のクレーンが設置され、上り線のホームに直径1メートルを越える柱が2本立ち上がった、仮設ではなくしかも大きな梁で連結され、更に工事が進み、下り線側にも2本の柱とそれぞれを梁で井桁につなぎ、工事の全貌がほぼ姿を現わした。上り下り2面のホーム上に、旧来の御茶ノ水橋側の歩行デッキとつなげて、大きなスペースが出現するのである。何のことは無い、階段の幅は少し狭くなるがホームの中ほどに別の階段が増設され、幅は聖橋側と同じでよいのだ。更に工事が進み3本目の柱が建ち、4本目を示す白い円が聖橋側の階段を下りて間じかのホーム上に画かれている、デッキは聖橋側につながり、その幅は外側の線路一杯に、片持式の梁が出ている。デッキの規模は東西両出口と、上下線の線路外側一杯の巨大なものである、これが歩行通路だけの筈が無い、鉄骨の規模から2〜3階の駅中(えきなか)施設になると思はれる。この予測外れるとは思えない、神田川対岸からの駅全景の変化が楽しみである。

otya e.jpg
  写真 仮設デッキに設置されたクレーン
otya g.jpg
      ホーム上の円柱

otya h.jpg
      デッキを構成する鉄骨

 とにかく当局は合理的に最小の経費で対応するもので、階段の増設と言う当たり前のことに考え及ばない、素人の見当はずれの妄想に恥じ入るばかりであるが、デッキについては外れないと確信している。
 ここで又訳の分からないことが起こった、聖橋のきれいなアーチの全面を覆う仮設シートが張られ何事かが始まったらしい、T・W(タウン・ウォッチ)の真髄、着工前・完成後を比較する楽しみを外される予想外の動き、いろいろな方向から御茶ノ水駅周辺の写真を撮ってきたが、あの聖橋のキレイな全容全く撮っていない、工事の進行を待つしかないが、たまたま11月8日、左手のひらのデュプィトレン拘縮の再診で東京医科歯科を訪ねた折、シートの一部が外されていてアーチの下側一杯に足場が組まれ、アーチ下面のコンクリート補強と思われる。かなり前から、東京駅から新橋間高架のレンガ構造のアーチに、直下地震対策としてコンクリート補強が施されているが、同じ趣旨のものであろう、しかしこの費用JR持ちとは思えない。


  写真 聖橋 (シートで覆われたホームからの眺め)

18年3月となり、デッキの鉄骨がほぼ組みあがったところで、全景を聖橋からカメラに収め、荻窪・吉祥寺の現況を確かめたが、何の工事も始まっていなかった。グリーン対策の予算500億円の大部分が御茶ノ水に投じられると思われる、とりあえず中間報告とする。
 
  写真 聖橋から見た御茶ノ水駅の全景 
      吉祥寺駅
posted by 3p at 08:15| Comment(0) | 日記

2018年10月15日

ラサへの途 その3  オウム真理教と吹上   大幡



 吹上からラサえの道、とんでもない取り合わせどのようなことになるのかな、無事たどり着けるのかな?
 1995・3・20全都を震撼させたサリン事件、その後数年にわたって、上祐を教祖代理とするオウム真理教徒の妄動が、あちこちに繰りひろげられ、吹上町富士見団地の東、用明の一民家に教団の信徒が住みつき、この地域の拠点として、何かを企てているのか信徒の出入りが激しくなった。町当局は大騒ぎである、地域の議員・役員・消防団等が動員され、当番制で24時間ぶっ通しの関所が設けられた。たまたま当時交流のあったG議員の手引きで、ある夜、この関所にボランティア参加した、物々しい雰囲気に肌にあわ立つ思いをしたが、何事も起らなかった。
 松本某の唱えるオウム真理教、その教義はチベット仏教の一派に起因しているが、特に性を教義に取り入れて、淫伺邪教と言われるようになったタタントラの流れを汲み、正に邪教そのもので、かなり教育水準の高い若者がすっかりとりこになり、教祖の指示するままに、人類史上薬物テロとして最大といわれるサリン事件を引き起こしたが、その信仰心の強さを深く認識された。ここでチベット仏教の歴史を尋ねてみよう。

tibet 10.jpg


 00頃インドに起った仏教はたちまちチベットに深く浸透し、00頃インドで興った00教により本家の仏教は廃れ、ラサは本山のような地位を占め、益々興隆の道をたどったが、その宗派と教義は複雑怪奇に発展した。これには広大な地形に広く分散した部族の事情があったと思われ、宗派ごとの法主(ほっす)が政治経済の首長を兼ね、その世襲を望みしかも妻帯を禁ずる戒律との矛盾を避けるため、叔父甥の血筋による伝承が蔓延し、世襲の害を避けるため輪廻転生の教えに従って、法王の次世としてそれと思しい五歳くらいの幼憧を探し、ダライ・ラマとすることになったが、幼い期間の摂政の立場の人が妄動を起し、別の系列としてパンチェン・ラマを立て、ダライ・ラマが14世に、パンチェン・ラマ7世となって、本家争いをして数世紀が流れている。


tibet 11.jpg
 ラサ

 ここで中国との関係だが、夏・殷・周から秦のころまでは、西戎として蛮族の住む僻地との認識しかなかった。元・明・清になって朝貢・宗主の関係になり、元朝の頃はむしろチベットのほうが文明的に先進国であり、元の皇帝も仏教に帰依し、文字と書記能力を評価して、官僚組織に深く取り入れ、緩やかな統治に終始した。また後宮に入り込んだ仏教は性力をかざすタントラの力もあってか、深く強く浸透し大きな影響力を発揮した。明朝になって朝貢関係はそのままにして、後宮におけるタントラの弊害が目に余り、淫祠邪教とまで言われるようになった。清朝の支配は巧妙・強力になり仏教の影響力はほぼ消滅した。三朝700年の朝貢制によりチベット人はゆで蛙状態になり、軍事官僚は全く育たず、諸派に分かれて内部抗争に明け暮れ、時折の独立の動きも一部の部族にとどまり、拙劣な用兵により忽ち制圧されるのが常であった。
 中国共産党政権になって、チベットの植民地化は拙劣に始った。共産党の「働かざるもの食うべからず」のとおり、僧侶は寺を追われ寺は破壊しつくされた。いたるところでテンデンバラバラの抵抗運動が起きたが、組織も有効な武器も無くただ屍の山を築くだけであったが、これに対して共産党の修正も素早かった、いくつかの寺が再建されて僧侶が迎えられ、去るダライ・ラマは追わず、新装成ったポタラ宮にパンチェン・ラマを向かえ、仏教徒に対して友好的な体制を装った。しかし、実効支配のため、100万人単位の漢民族が流入して、社会のあらゆる役職を占め、既に半世紀近い時が流れて、インドに逃れたダライ・ラマの動きと、ノーベル賞の加勢もあるが、中東の混乱にまぎれて国際世論にも目立った動きも無く、気の毒だがチベットの独立は当分実現することは無いだろう。
 しかし、寒冷な高地に中原の耕作を取り入れ、極薄の表土を剥ぎ取り、工業力無しに過大な人口を抱えるなど、自然の摂理に反する政策は、やがて、とんでもないしっぺ返しにあって、いつの日にかすごすごと敗退する漢民族を、見るときの来るのを祈るや切である。
 余談だが、冒頭のG議員との交流は、大前健一の唱えた平成維新の運動時、上田候補の吹上選挙事務所を通して始ったのであり、めでたく吹上に戻ってこの項を終わる。



    2018-10-15


posted by 3p at 01:00| Comment(0) | 日記

2018年10月14日

ラサへの途 その2 視略鉄道    大幡


 広大なチベットという地域、南にヒマヤラ・北に崑崙の険しい山脈、西方パミール高原に興った文明は、物産豊かな西へ向かい東のチベットへと進むことは無かった。従って、この地域への外敵の侵入路は東側にしかなく、歴史上も元・明・清と中華圏からほぼ1000年間、一方的圧力が掛かった。
 これに代わって南のインドに興った仏教文化は、仙道を通して広く深く伝道されたが、歴史のいたづらか元々のインドで仏教が廃れ、チベットが本山のような地位を占めることにより、チベット族の根幹となり、元・明・清に対しては文化的優位の地位を得ることになった。
 これを中華圏から見てみると、隋の時代吐蕃として認識され、西戎と呼び未開野蛮な迷妄の人々とされ、臣従・朝貢の従属者であった。この動き、清朝滅亡後しばらく途切れていたが、1951年共産党率いる中国が成立するや否や、チベット併呑の動きが始った。八分の一に相当する広大な地域を、勢力圏として国民に誇示できる当時としては最も小売うの良い道であった、しかも、南方インドからイギリスによる侵攻の動きがあり、これの押さえとしても必要であった。
 このイギリスの動きわが国が大いにかかわっている、日清戦争の時代にさかのぼるが、清国の周辺朝貢国への支配力弱体化が露呈し、独・仏・露の三国干渉による遼東半島変換圧力にたいし、英米をたのみとしての日本の接近は、イギリスのチベットへの進出を誘発し1904年ラサ条約により地歩を固め、チベット問題に強力な影響力を行使するようになった。
 紆余曲折はあったが、1945年第2次大戦が日本の敗戦で終結するや否や、フランス・オランダの旧植民地への再進出が始った。ようやく内戦を制した共産党、東北の地(対ロ)は安泰である、残るはチベットのみイギリス排除に懸命にならざるを得なかった。
 その後世界は民族自決権の尊重、植民地諸国の独立の流れが続いき、半世紀の時が流れソ連圏の崩壊もあって、地球上、この流れに取り残されているのが一部クルド等の例外もあるが、中華圏のみとなった。しかし、中国共産党にとって、チベット・ウイグルを含めての大中国は必須の存立基盤である。チベットにとっては悲しい現実であるが、共産党がある限り独立等全く望み得ないことである。しかし、一方的な中国の強権支配の影に、チベット族の長い歴史に、独立を達成出来なかった諸々の事実があるが、これ旗項にゆずって鉄道(西蔵線)を急ごう。


tibet 07.jpg


tibet 09.jpg


tibet 05.jpg


tibet 08.jpg



 植民地を実効支配するには、本国からの強力な交通路による連結が必須である。地勢的に北京からの陸路によるしかない、辛うじて南側にレド行路等の自動車道が開かれているが、これも峻険な山脈によりつづら折れの急坂の連続である。鉄道しかない、幸いなことに国際情勢は、この地域に対する列強の関心が薄れ、中国にとって時間だけはタップリあった。
 一方、新疆ウィグル地区は地勢的に西方とのつながりが強く、1961年青海省西寧からの鉄道が開通した。並行して1959年ラサに向けて、チベット自治区のGDPのほぼ倍額の40億ドルの西蔵線が計画されたが、毛沢東下の大躍進政策の失敗から、全国で推定4000万人の餓死者もあり、鉄道どころではなく1974年再開の試みもあり、中間点のコルムドまでの到着は20世紀末を待たなければならなかった。
 2001年コルムドからラサえの建設が始まったが、標高4000mに伴う酸素濃度の低下に加えて、永久凍土という難条件が待ち構えていた。この2〜3年後にわが国との新幹線津出芽起動したが、西蔵線は広軌でこそあれ、旧規格の単線1960km、盛土区間は幅20m高さ7〜8mの路盤とし、勿論電化ではなくヂィゼル機関車により、世界最高遅延5072mのタラン峠(トンネル)等難工事の連続であり、すでに中国の鉄道技術は多くの記録工事を成し遂げて、世界でも一流と評価されていたが、一面強権国家ゆえ、やるとなったら少々の犠牲をいとわない、残されたのは永久凍土である。
 永久凍土とは、常温で深さ100mを超える沼沢地が凍結したものである、もしも地表部分が解凍すれば底なし沼である。鉄道路盤としては全く期待できない、しかも広大で避けて通ることは出来ない。これえの挑戦は1973年頃から試験線路による研究が始められ、様々な方法が試みられる一方、カナダ・シベリヤ等の先例も調査された。
 そこで凍土といっても殆ど水という地域は、深さ100m位の橋脚を掘り下げての橋梁法式に。土壌の凍った地域では路盤を積極的に冷却する方式をとることにした。その方式は地中10m位まで直径200mmのパイプを打ち込み、底にアンモニアが注入され、上端に換気扇を回り冷気が循環させ、路盤を支持する凍土の溶解を防止する装置である。十分な実証試験を経ることなく工事は進行した、パイプの埋め込み作業は60mごとの区間に分割され、数十のグループが落札して、すさまじい競争が始った。どれほどの手抜き工事があったか計り知れない、全線に亘りすさまじい補修工事が起るのではないかと想像される。

tibet 06.jpg

 中国当局にとって、チベットの支配は経済的には殆ども出だし一方の、底なし沼かもしれない。しかし、これを超える版図の拡大と言う政権の威信が掛かっているのだろう。省みえ見ると、わが国が朝鮮半島につぎ込んだ膨大なインフラは、今反日という負の連続となり、トンデモナイ負債となっているが、中国もやがて同じ思いをするのではないか。
    


     208-10-14



posted by 3p at 01:36| Comment(0) | 日記